たまには哲学的言説 −「生きる」とは何か

今日は会社休みで、外は雨orz
昨日というより今朝か・・・「生きる」とは何かという題について、掲示板で思いつくままに書いてみたら、意外にもまとまってたから、ちょっとここでも書き残しておこう

生きるとは?という命題は生きるという言葉の意味を問う命題にほかならない。しかし、人間が生きるってのは、外部によって規定されたなんらかの絶対的目的や意味を沿うものではない。なぜなら、そのような生き方をする人間は機械の一歯車とはなんら変わらないからだ。そういう意味では、この命題はそもそも愚問だといえる。

しかし、生きるという言葉を知った時点で、その意味を考えざるを得ない。簡単に生きるなど無意味だと切り捨てられない。なぜなら、生きることの無意味性を是認することはすなわち、自己存在の否定であるから。

自分の生に意味を認めることは、自分が存在してもいいというもっとも基本的な自己肯定から出発する。それは言葉によるものではなく、生の欲求からくるもの。だから、、自分の存在に自覚を持つ必要がある。

さて、外部により絶対的に位置づけることができない生に、いかにして意味を与えうるかということになるが、それは簡単なことで、内部より意味を与えてやればよい。

そこで、「何のために生きるか」「生きることの意味とは何か」という受動的な意味探しから、「何のために生きたいか」、「どんな生に意味を認めたいと思うか」という能動的な意味付与に問題が変化する。これが「個人それぞれの生きがい」の正体である。

そこには、確固たる個人意志が存在する。しかもその個人意志は自由意志から生まれる純粋なる始まりである。それが生きる意味を生み出す源泉となる。

ここからは、追加の部分

純粋たる始まりについて。純粋たる始まりは純粋であるゆえに、それより先に生じるものは何もない。それが生の問題に還元した場合、それが生の意味を与えるゆえに、理由を問うのは無意味である。そこに理由づけができれば、純粋たる始まりは純粋たる始まりではなくなるからだ。純粋たる始まりは生に意味を与える、すなわち、生のエネルギーの発生の場である。発生の場であるゆえに、ほかのところによりエネルギーを供給されてはならない。なぜなら、そのようなところは、ただの中継ポイントにすぎないからである。

生きるとは何かという問題を考えることは、実は、この純粋たる始まりを探していることにほかならない。いかなる外力によっても、破壊しえない確固たる意思、エネルギーの発生の場。ここに生にめぐる言説が収束していく。あらゆる意味の原点。これが生とはなにかという問いに対する答えである。

 

とま、ごちゃごちゃ書いてみました^^;;


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